年末、戯曲研修セミナーを行う予定。
そこへ向けて、別役実の本読みをコツコツしている。ひとまず一人で。
これまで戯曲を先行して上演のあり方を考えたことがなかったので、完全に手探り五里霧中で取り組んでる。いったいみんなは何を手掛かりにしているんだろう。
考えても他の人のことはわからないので、これまでの自分のことを振り返って考えてみる。漠としたイメージを形にする術との出会いから企画や作品の立ち上げに向かっているように感じる。日常の不信の時に記憶を劇にすることや、一側面に偏る情報の時に新聞や、危険だなぁこわいなぁと感じることに、自分なりの解答をできるように取り組んできたのだろうか。そうだろうきっと。
タイトルにも書いた「演技の解像度」というキーワードは、自分が30代中盤になってから20代の人と触れ合う時に感じているイメージで、出来事の解像度のコントロールをしているんだなぁ。と解釈しています。どういうことかというと、ある出来事が起きた人が、見事に必要な箇所だけを意図的に切り取って伝達することがこれまで以上に巧みにできるのだろう。と感じています。例えばSNSでの投稿とかで切り取って伝えることとか。それらの連なりで、徐々に解像度が高くなってくるのだけど、あらゆる人が発信出来る中で、届く情報はピックアップされて数少ない情報で、、例えば3つだけだった時に、その3つからストーリーや人物像を作りあげて解像度を粗くして理解しているのかなと。もちろん、そこから関心があれば中に入り込んで調べ尽くす(尽くしたという誤解)ことが出来て、解像度が高くしているのかなぁ。と。
この他にも、紙芝居とか、オープンダイアローグとナラティブセラピーなどで書かれていた、語り手の視点(事前の情報)で、受診することが変わるとかも気になること。
今日は「別役実/門」を読みました。
気になったセリフ
・そこだよ。何から何まで云わせるもんじゃない。
想像したことやキーワード
・揺り籠から墓場まで。
・墓場までの時速